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御祈願は雷神社へ

〒289-2616 千葉県旭市見広1371番地

見廣城の陥落HEADLINE

 里見の軍勢の攻めが急であったので、要害山にあって堅固をほこった見廣城もついに落城ということになりました。城主嶋田三河守忠廣は城を出て、利根川の方に逃れて行きました。 芦崎村まで行った時、追手に追いつかれてしまい、芦の中にかくれた。追手は懸命に探したが、なかなかわからなかったが、一人の媼が近くに居るのに気づき、「勇士がこっちに来たはずだが、何処にかくれているか」 と言ったら、媼は黙ったまま芦の中へ指さした。城主三河守はとうとう捕って殺されてしまいました。その後媼の家では、黙ったまま指さして知らして三河守を殺させたので、代々唖が生れると云われています。  また見廣村や岩井村では、落城の日が九月九日の菊の節句の日であったのでそれから後、今日迄菊の節句はお祝いをしないといわれています。      
《注》見廣城については、嶋田氏は藤原家の裔であ るという説や、三河守の妻が常陸国島崎城主 (牛堀町)から嫁いだ田鶴子姫にまつわる伝 説もある。見廣の「嶋田、大谷、遠藤、勝部、 穴澤、滑川」姓は見廣城主又はその家臣の末 裔である。
《注》見廣の滑川姓は常陸国から嫁いだ田鶴子姫 に従って来て見廣城主に仕えた重鎮の末裔。      
《注》明治期末に城下の洞窟から人骨十二体の外多 数の武具が見つかり、靖国神社の遊就館に納 めたと言われているが、遊就にはその記録が ない。また、その洞穴は古墳時代の「横穴墓」 である可能性が高いが、今となっては調査の 術は無い。      
《注》見廣城址は旭市指定文化財。