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御祈願は雷神社へ

〒289-2616 千葉県旭市見広1371番地

時忠天神HEADLINE

 倉橋の天神社は時忠天神と謂って、平時忠がこの地に来て亡くなり、これを祀ったと伝えられています。昔、大納言平時忠が源義経と共に頼朝の追及をのがれて飯岡の佐貫城に来ましたが、城主片岡常春の処にいつまでもいるわけにもゆかず、義経は銚子を経て奥州の方に落ちて行くことになり、時忠は大勢でいては目立つので、わずか供二人を従えて、義経と八木村で別れて猿田村へやってきました。村に入って厄介になるわけにもゆかず、ようやく笹巻橋を渡りました。
この時詠んだ歌に

命あらば又も渡らん下総の海上川の笹まげの橋  

 文治元年のことでありました。猿田村より倉橋村の北の方を通っていた時には、病はだんだん悪くなってきて、歩くことが出来なくなってしまいました。休殿台という処がありますが、そこで時忠が休んだと謂われています。お供の人達も困って、そこのすぐ下の窪地に小屋を作って休むことになり、しばらくそこに居ましたが、煮炊きしていた鍋をこわしてしまい困ってしまいました。鍋こわしという地名が今でも残っています。 追われる身であるので、倉橋の村に入ってはどうなることか心配だが、鍋はこわれるし病は重くなるばかりで、どうにも仕方なく、意をけっして村に入ってみることにしました。  休殿台に立って遥か南の方を見ると、煙が立っているのが見えました。それを目当てに行きますと、一番手前に彦兵ヱという家がありました。わけを語りますと、彦兵ヱさんはこころよく泊めて介抱してくれました。 幾日かするうちに身体も良くなり、永く泊まっていました。只居てもと村人達に読み書きを教えたり、機織までも教えました。ついにこの地で一生終わりましたので、村人達は偉い人でありましたので鄭重に葬り塚を築き、後に塚の側に天神社として社を建てました。  お供の二人も倉橋で亡くなりましたので、一人は上倉橋権現、一人は下倉橋権現として祀られたと伝えられています。     《注》「笹巻橋」は猿田駅の東踏切傍の海上川にかか る橋。川の両岸に密生する女竹を両方より曲げ て蔓で巻いて作ったという伝説の奇橋。     
《注》「海上川」は倉橋を源流とし、猿田、高田を経 て利根川に流れ込む清流で水量も多い。途中、 高田川、梅川と名前が変わる。白石ダムの出来 る前、支流に「ミツポ池」という底なし沼があ って、そこで沈んだ物は鹿島神宮の神池から浮 かんだという伝説があったが、今はその池はな い。倉橋から蛇園、長尾経由で干潟八万石から 太平洋に注ぐ川もある。倉橋は分水嶺である。     
《注》天神様の森は、旭市指定の天然記念物。