陰暦十月十日には嚶鳴村後草に芋念仏と稱する行事あり、豊岡村八木との聯合大供養にして、酒食の饗應等あり。寺院にては空也念佛を行ひ、近郷より老若男女の集り來るもの頗る多し。後草は古昔飯岡の東南一里にありて、八木と境を接せし村落なりしが、今より凡七百年前、後草の漁人、海濱に於て一個の箱の漂流せるを見て之を拾ひ、數人集り開きて之を檢すれば、光明燦たる彌陀の尊像三軸なり。人々奇異に感じ、是を松樹に懸けて經を誦し、其の傍に小庵を營みて尊像を安置せり。今豊岡村に彌陀懸の松、彌陀が臺の舊跡あり。當時附近は、人煙稀なる廣野なりしが、人々尊像を拝し、誓て曰く、願くは加護により各一村の祖たらんと。
後幾多の星霜を重ね、子孫繁衍して七ヶ村に亘れり。故に此の阿彌陀を七村阿彌陀と云ふ。七村とは八木、小松、永井、後草、三宅、赤塚、正明寺なり。 七村の人々は、その範圍の廣大に過ぎ、法要を行ふにも種々の困難生するに會し相議して、七村を二部に分ち、尊像の軸を?分して各部に奉安せり。永井、小松、八木、後草は其の一部なり。其の後後草は波浪の侵蝕を受けて海岸虧缺し、住居に堪へず、相率ひて椿湖の附近、蘆葦叢生の地をトして移住し、以て現今の後草をなせり。故に芋念佛には、必ず八木の人々の來會するを例とせり。